明治、大正、昭和の時代から現代まで歴史のロマンを探訪します。都城は日向国に属するが、鎌倉時代から島津家の影響下にあった。 源頼朝に島津荘の下司職に任命された惟宗忠久(これむねただひさ)が、任地から取って島津を名乗ったのが始まりだ。 家祖忠久が荘園管理のため館を構えたことから都城は島津家発祥の地と言われる。 その後、島津家は本拠を鹿児島に移し、都城は分家が治める地となった。 拠点の山城「都城」が地名の由来である。https://www.city.miyakonojo.miyazaki.jp/site/shimazu/12486.html

本町

都城で一番の目抜き通りである国道10号線・中央通り周辺の史跡について記してあります。なるほど、市役所と道を挟んで隣接する明道小学校の位置には領主館があり、そこから現在の中央通りの元となった広小路本町唐人町が北方向へ向けて続いていたわけですか。中国からの移民町が都城にあったというのも意外です。しかしながら、江戸初期の1615年に都城島津家(元の北郷氏)の城下町がこの地点に移動して以来400年、都市核がほとんど移動することなくひたすら都城の中心地として継続してきたというのはすごいですね。

都城のデパート前バス停の前にもその名の通り百貨店がありました。

上の「中央通り一帯の史跡」に掲げられている地図でも確認できますが、中央通りを挟んで東側に大丸デパート(都城大丸)が、西側には寿屋都城店がありました。

大丸というからには天神とか神戸とか大阪心斎橋にあるあの大丸を思い浮かべますが、この都城の大丸はそれらとは何の関係もなく、「大浦」という会社が経営していた完全ローカルな百貨店でした。寿屋は言わずと知れた熊本資本のスーパーチェーンでしたが、都城の店は規模も大きく事実上の百貨店クラスとして、かなりの集客効果があったようです。

都城で一番の目抜き通りである国道10号線・中央通り周辺の史跡について記してあります。

ちなみに都城というのは北郷氏2代目・北郷義久が1375年に今の都城歴史資料館の場所(都城市都島町)に城を築いたことから「都島の城」→「都之城」となったのが由来だそうです。地名的には都島町のほうが市名の都城より古いわけですね。